南濱墓地 墓石調査 Nブロック

まずは配置図を作成しました。

   各列をA~Vとしてそれぞれの墓石に番号をふって A-3 のように区別します。(あ~面倒だなあ)
   青い四角は一族墓で、現在も祀られています。他に祀られているのは小数です。

Nブロックの墓は数少ないですが興味深い人物がいます。(どの人も現在は無名ですが)


右端の墓は祀る人がいる新しいものです。


塀で囲まれた一族墓は祀る方がいます。
似た石塀が近くの源光寺にもあります。

 
N-1  五輪塔を刻んだものは南濱墓地で唯一です。
   各層ごとに梵字があるのですが、一般的な文字と同じなのかすら判別できません。
   花立は後から置かれたもの。


N-2  右側   正面   旭譽圓月岳映襌定門
          右側面  猪名川政右衛門
          左側面  寛政十二庚申歳(1800)二月九日
          裏面   二代目猪名川政右衛門
               三代目藤嶋政右衛門
          水盤前面  大正時代に追加したのでしょう。碑文があります。
          相撲力士「猪名川政右衛門」の墓なのですが、調べると猪名川の墓はここも含めて3箇所あります。
           ①ここ南濱墓地  「猪名川政右衛門  旭譽圓月岳映襌定門 寛政十二庚申歳十月九日」
               1755年(宝暦5)に藤島部屋に入門し、小結までという説。
           ②西成区岸里の安養寺 猪名川弥右衛門」
               1849年(嘉永2年)に57歳で没
               息子の菊ケ浜弥右衛門と門弟が建立
           ③大阪府池田市の西光寺 「旭誉円月岳映禅定門 猪名川政右衛門」
               1800年(寛政12年10月19日)没
           ①と③は同じ人物です。なぜ2箇所に?
           ②は多分同姓の別人でしょう。

N-3  中央   正面   山口丹波守源直清墓
        裏面   4行の碑文があるのですが掠れて読めません。
        江戸中期の大阪東町奉行だった山口丹波守直清だとわかりました。
        寛政7年7月~寛政10年(1798)2月に亡くなるまでの短い在任です。
        3000石の大身旗本だったのに、宇和島の一族の墓でもなく、江戸でもなくなぜ南濱に?
           (宇和島藩主伊達村候の次男で旗本山口直承の養子)
           (孫の伊達宗城は宇和島藩主になる           )
        なぜこの形の墓石に? まるで記念碑のよう。
        あまりに不思議なので別項にてトコトン調査


N-5  右側   正面   松岳
                尼涼月
          右側面  二●安政二巳卯年(1855)二月建之
          左側面  明治十五年(1882)四月七日
                 法教
                 尼妙教
          台座   ●●
N-6  左側   台座を残して竿石は行方不明です。
          台座   北野       北野村を指します。
                長●


N-5  右の笠を乗せた墓も難物です。 正面しか文字が彫られていないのですが・・・

   上半分には    無縁精霊
              為一切合職
              仏果菩提
   下半分は10行あり  享●九甲辰三月・・・    九甲辰から享保とわかる
                ●●●十三廻・・・・
                ●●いりの・・・・・
                大火四方ふさぎ・・・
                ●●●を●水・・・・
                ●子・・・・・・・・
                ・・・・・・・・・・
                ●●ね●●●ぬ・・・
                ●●れ来・・・・・・
                ●●か・・・・・・・
    享保9年(1724)3月21日には妙知焼と呼ばれる大火があり、この石碑は13回忌にあたる元文元年(1736)に建てられたものでしょう。
    Aブロックには50回忌の石碑があります。



 
N-9  中央  正面に8名、左側面に6名、右側面に4名あるのですが、どうも一度に彫られたようです。
         裏面   文政六癸未年(1823)八月建之
         台座正面 節屋庄右衛門
               節屋庄兵衛
         台座裏面 常吉氏
              この節屋とは鰹節屋のことです。
              台座の前後に名前が彫られているを初めて見ました。
              「節屋」は置屋かとも考えたのですが、2代続くと違うと。
              閑話休題:数十年前の市場の乾物屋死語には数種類のカツオブシを削って
                    花カツオの状態で量り売りこれも死語になりました。
                    豆屋とか味噌屋なんてのもありましたね。


N-8  これは江戸時代の書道家として超有名だった(現在はほぼ無名)佐々木志頭磨の墓です。 おまけ参照
   正面  弟子川鶴梅溪による長文の碑文
   裏面  大義院孤峯宗峻居士
        谷壽院観月自響大姉
         志頭磨には子供正林がいたので、この谷壽院は姉ではなく妻でしょう。
   台座には何も刻んでいないが、なぜか水盤・花立には「栗林家」とあります。
   まったく別の墓のものをここへ移したのでは?
   大きな誤解をしていたことが後で発覚。大掛かりな調査をするハメに。


N-7       正面はおとなしく 南無阿弥陀仏 とだけ。
        左側面   7名
        裏面    万延元庚申年(1860)七月
        台座    中川


   一族墓できれいに整備されています。


おまけ
大阪日日新聞から なにわ人物伝 佐々木志頭磨を抜粋紹介します。
   弘法大師しのぐ評判の書家
   彼は元和五年(1619)、京の書家佐々木専念の子に生まれた。通称七兵衛。十歳の時、父専念が死亡、しっかり者の姉しづに養育される。
   のち雅号を志頭磨(自分の書は姉しづによって磨かれたとの意味)と付けているから、心の中ではずっと姉に感謝していたのであろう。
   賀茂神社の神職で「賀茂流《書家藤木敦直に預けられ、「字は教わるものではない。自分で好きなように書け《と厳しく教えられた。
   汗と涙を流しながら、やっと百字のうち十字ほど合格すると敦直は、今度は明時代の『玄抄類摘』を渡し、独学のため七兵衛を賀茂神社から追い出した。
   それからは学んだ師匠は一人もいない。四十近くになって佐々木志頭磨と名乗って大坂に入り、書道の塾を開く。
   各地方に、彼にまつわるエピソードがいくつか残っているから、旅から旅を重ねて修業したことは確かだ。
   江戸に滞在したころ、幕府の重役がちまたのうわさを耳にして「上様は書がお好みじゃ、書軸を献上せよ」と命じた。
   志頭磨は重役をじらせた後、たった一文字「平」という字だけ書いて差し出す。
   「おのれこ奴め。上様を愚弄(ぐろう)する気か」と重役は真っ赤になって怒ったが、幕府の祐筆たちは声も出ないほど感嘆したという。
   小野道風や弘法大師も及ばぬとまでいわれた江戸時代前期の天才書家佐々木志頭磨は、無類の凝り性であった。
   京都の東山区茶屋町方広寺の住職から「下馬」の二文字を書いた立札を頼まれた。ところが何年たっても届けてくれない。
   とうとうしびれを切らせた寺の役僧たちが志頭磨の自宅に押しかけ、仰天した。
   大きなくずかごが二つあって、一つには「下」の字が、もう一つには「馬」の字を書いた木片が、山積みされている。
   「一字だけならやっと書けた。しかし二字合わせると、まだ合点がいかぬ」と遮る志頭磨の手をはねのけ
   役僧たちはくずかごからいいかげんに「下」と「馬」の木片を一枚ずつ取って寺へ持ち帰り、下馬札を立てる。
   その見事なこと。たちまち評判になって京のみならず、地方からも名のある書家たちが訪れ、誰もが感嘆の声を上げたといわれる。
   志頭磨の字を見たければ、住吉大社に参拝すればよい。名筆燈籠と呼ばれる多くの石燈籠の中で「志頭磨燈籠」は西広場にあり
   「住吉太神宮拝前 敬上永代常夜燈 貞享元甲子年仲夏吉辰」と記されている。
   元禄八年(1695)八月、七十六歳没。墓は南浜墓地にあり、「佐々木志頭磨専林先生」と刻まれる。    墓石の周りにまな弟子の川鶴梅溪の、師を惜しむ長い漢文の碑銘があるが
   その中に「先生は陶渕明のような人柄で、大勢の人たちから慕われた」との部分が目をひく。
   陶渕明(陶潜)は夏目漱石が尊敬した中国の漢詩人、愛酒家でもあった。


おまけ2
近畿墓跡考に碑文が記載されています。赤字は私の勝手な解釈です。
文章の中には漢籍から多数の引用がされているようですが、知識のない僕にはそれが引用なのかどうかもわかりません。
   佐々木志頭麿専林先生塔碑銘并叙
   先生姓佐々木。名春。字専林。別稱志頭磨。蓋松竹堂者其号也。以貞享三年柔兆摂提格之歳。降霊京師。享齢五十
                                       柔兆=丙  摂提格=寅
        姓:佐々木 字:専林 別称:志頭磨 号:松竹堂。 貞享3年丙寅年(1686)に京都に生まれ
   有六。卒干攝之天満。實寛保元年重光作噩仲秋十四日也。及葬同州濱墓。蓋聞先生者先以換鵞之術。所鳴干世
                  重光=辛 作噩=酉
        摂州天満で寛保元年辛酉(1741)9月14日没、濱に葬る。享年56。先生の人柄と腕前は王羲之の換鵞の話にも近いと。
                (おまけ1,3とは没年も年齢も違う)
   之佐々木専念先生之嫡子也。十歳喪父。及長。依家姉照元。以傳父之業。吊声籍甚。相継大鳴干世者。有年干茲焉。
        高名な佐々木専念の子で、早くに父を失くして姉照元に育てられた。父の業を継ぎ、名声はすばらしく世に広まった。
                                (近世畸人伝では照元は娘)
   後遷居於浪華大江邉。到処人皆重之。問道学術之士。撞々盈門。然先生稟質素有淵明逸少之風。上敢楽識韓刑
        住まいを大阪の淀川べりに移し、書だけでなく学術を学ぶ者が溢たが、先生は陶淵明のような質素な生活をし
        李白のように不運を嘆くことはなかった。(おまけ6)
   州。居常沽酒設席。布紙走筆。粛然自楽焉。於戯俾先生獲保永壽。則有張皇家業。而光干世者。其如命何。於是鶴上
        住まいには常に酒があり、筆を走らせるのを楽しんでいた。・・・
   堪働哭。率其家嗣正林。曁係干先生之門下者若干人。相共戮力。抽資堅石。勒銘干其上。以記歳月云。銘曰。
        先生が亡くなり私川鶴は慟哭するばかり。先生のあとは息子正林が継ぎ、門人がこの墓を建て、碑文を刻んだ。
      聞世吊士。傑出萬人。孕英華洛。清標絶塵。能繼父業。精妙入神。僅下椽筆。為世所珍。済々多士。
      如鳳如麟。人欲天稟。奈薬無君。属纊時至。遽爾帰真。上堪哀慟。勤銘蒼珉。千古萬古。鴻業上泯。
   寛保三年(1743)龍集癸亥仲秋十四日
        寛保三年周忌の日にこの墓を建てる
                     門人 梅渓川鶴九皐謹撰
             墓石裏面には男女2人の戒名がありますが、碑文はまったく触れていません。
             男性のほうが志頭麿だとしても、女性は誰なのでしょうか。姉か妻か娘か。
             墓が志頭麿の死後3年目に建てられたので、娘ではないでしょう。
             同時に名前を刻んでいるので、この女性は志頭麿より先に亡くなっていたことになります。
             とすると「谷壽院観月自響大姉」は志頭麿がつけたのでしょう。
             あなたはどちらと思います? 姉か妻か。


おまけ3
石川県史にこんなのを見つけました。
      佐々木志頭摩は通稱を七兵衞といひ、京都の人にして賀茂神社の祠人藤木甲斐の門人なり。松竹堂と號し、
      書を以て加賀藩に仕へ、二十人扶持を賜ふ。その書概ね墨重く肉厚し。綱紀曾て志頭摩に命じて、丈餘の
      文字を座前に作らしむ。志頭摩謹みて旨を領し、巨筆を握ること杵の如く、跪伏膝行して書せしに、
      侯は之を賞して絶技といへり。又妙法院入道親王命じて方廣寺の下馬牌を書せしめしに、累月にして
      果さゞりしかば督促甚だ嚴を加へたりき。志頭摩乃ちその稿の二長櫃に滿ちたるを使者に示して曰く、
      僕敢へて令旨に反くにあらずといへども、未だ意に適するものを得ざるを如何せんと。使者歸りて之を告げしに、
      乃ち志頭摩の佳良なりとする字を擇びて接續摹勒せしめたりき。志頭摩燕居するときは、則ち左手に右手を承け、
      保持すること極めて厚し。人その故を問ひしに、應へて曰く、運筆の際顫掉せんことを恐るゝが爲なりと。
      又常に黒漆の塗板方三尺なるを設け、その面に水書して體勢を整へ、名づけて玉板と稱す。
      晩年致仕して京に歸り、剃髮して專念翁と號す。元祿八年歿する時年七十三。
                           ここでは元禄8年(1695)没73歳とあります
      千字文・敬齋箴・佳墨集・橋記等の法帖世に行はる。
      志頭摩の女を照元といひ、亦長恨歌・賢臣頌・赤壁賦・千字文・唐絶句・入墨玄妙等の書蹟あり。
      志頭摩の高足に荒木是水ありて又金澤に來寓せり。


おまけ4
日文研のデータベースにこんなのを見つけました。
近世畸人伝(正・続)
   佐々木志津摩女(佐々木照元)
   ささきしづまのむすめ(ささきしょうげん)
     本文:名高き書家佐々木志津摩が女は、高倉家、粟津信濃之介といへる人に嫁して、二十余年睦じくて過しけるが、
      夫病ミてみづから限りとおぼえし時いへらく、我なからん後は、世わたらひのたづきもなかるべし。
      さりとて、尼などにさまかへてあさましく落ぶれ給んは口をしかるべし。やうやうさだ過給ふ齢にはあれども、
      さるべきえにしもなかるべきかは、いづかたへもふたゝびとつぎて、やすらに過し給んことこそ、
      草葉のかげにても心安く侍らん、とかなしうかたらへば、つまは涙せきあへずながらこたへて、な憂へたまひそ、
      今迄はかくとも聞え侍らねど、おのれ幼より父の物書クことを教へ給ひしを、おろおろ学び置たれば、
      身ひとつ過し侍らんことは、ともかうもして苦しきには及ばじといへば、よにうれしげにて終りぬ。
      其後、貞操を守り、父が氏を名乗リ、照元、字ハ由也とて、能書の聞え有しかば、宝鏡寺の尼宮などへも
      御手本召れ、今の世にもその書るものもてはやしぬ。
   (追記)
      思孝云、大かたの女は、いさゝかの伎ありても是にほこるを、かくめでたき手をもちながら、年比むつびし
      中にも知られざるばかりつゝしめるは、難しといふべし。此一事をもて其余の正しきこともしられぬ。
      父、志津摩が誡教へしほどもおもはれぬ。予が画の道を人に教るにも、此心もちゐをふかくいましむれば、
      大かたはそれにてもやみぬ。まいて女の芸は、かゝる上幸の時のためとおもふべし。然らざれば上貞の端となるべし。
                        上幸とは嫁いだ夫が亡くなったこと        うへ~今も昔もそうですか
      もろこしの趙文が嬉好子が印を逆しまに押たるも、げにさることに侍り。
        思孝:三熊花顛 江戸中期の画家。京都生(一説に加賀生)。名は思孝、字は海棠、別に介堂と号する。
                 伴高蹊著『近世畸人伝』の挿絵を描き、また『続近世畸人伝』を著す。俳諧も能くした。
                 寛政6年(1794)歿、65才

      蒿蹊云、昔紫式部は、いとけなきより、其才秀て、父もをのこならざるをうらみける程なりしかども、
      文よむことを召シまつはすものにもつゝみて、一チといふ文字をだにしらぬものゝさまにて過グし、
      上東門院に史記を教へ参らするなども、いたく忍びける趣、其日記に見えたり。同じよに清少紊言が、
      ざえがり口がしこくて、をとこをものともせず、大進生昌といへる博士をさいなみけるなどは、今おもふにも
      にくげにて、後に落ぶれけるなどきくにも親しむ人もなかりけるにや、とさへはかられぬ。
      男も此女房などにおよぶべき才は、昔今稀なるべきだに、猶かうおもはるゝものを、まいて並々の女など
      いみじくともものゝかずかは。唯あれどもなきがごとくすてふ教をおもふべくこそ。因におもひ出しことは、
      おのれまだ壮なりしころ、中京に或ル家のひとりむすめ、文よみ歌よむことを好ミけるが、親聟どりして、
      家を継せける時、其聟は無下にむくつけくて、すぎはひのことより外はしらぬ人なりしかば、此女も年比の嗜
      をすてゝわすれたるごとくにもてなしけるを、いかにととふ人有しかば、ひそかにこたへて、他より来る夫なれば、
      よろづにつけてあなづらはしくもてなされんとや疑ふべき。まいて文雅のことなどは心高くおもはれんもうるさくて、
                                 う~む、ゲに女は恐ろしきか
      といひしとなん。此用意たうとむべし。


おまけ5
森鴎外の「北条霞亭」にこんな資料がありました。
   その三十九
     文化庚午(七年)七月二十二日に河崎敬軒の霞亭に与へた書には尚数事が条記してある。概ね繁砕言ふに足らざるが如くであるが、
     或は他日此に由つて何事をか発明することがあるかも知れない。
                  中略

     其三。「先日御願申上候佐佐木照(原註、昭か)元への添書、近頃御苦労之至恐入候へ共、是は私共の別而御願申上候儀に御坐候間、
     何卒御出立まで(に)御 認被下候様奉希候。何(れ)料紙さし上申候。何事にても宜候。唯貴兄御覧被下候儀を御認可被下候。
     十字許を御煩し申上候。《佐佐木氏、照元は書家志頭摩の 女である。
     志頭摩は加賀侯前田綱紀の策名便覧に一、二十人扶持、組外、書物役、五十三、佐々木志頭摩」と記してある。
     便覧は寛文十一年に成つたもので、名 の上の「五十三」は年齢である。
     敬軒が特に料紙を遣つて、霞亭をして書せしめむとした十字許の「添書」とはいかなるものであらうか。
     「唯貴兄御覧被下候儀 を御認可被下候」と云ふより推するに、敬軒は佐佐木氏蔵儲品のために識語を霞亭に求めたものか。

         ここに出てくる「前田綱紀の策名便覧」原文は探していません。綱紀は越前加賀藩の4代藩主。
         鴎外の文章だけから判断すると、志頭摩は寛文11年(1671)で53歳、ということは1671-52=1619年(元和5)生まれとなります。
         志頭摩が金沢を辞して京都あるいは大阪へ戻った時期は不明です。
         南濱の墓にある没年寛保元年(1741)なら 1741-1619=122才となってしまい、明らかにおかしいのです。
                                            墓の碑文が間違っているのでしょうか?
                     元禄8年(1695)没なら 1695-1619=76才となり、一般に言われる年齢なのです。
         佐々木志頭摩には同姓同名の人物がいたとの話があるのは、上記事情を指しているのでしょう。

         大阪市の住吉大社にある志頭摩燈篭には 貞享元甲子年(1684)敬上 とあるので
                                1684-1619=65才の頃のものとなります。(その年の書かどうかは不明)


おまけ6
碑文中の「上敢楽識韓刑州」の出典は李白の「與韓荊州書」なのか
                    「荊州賊亂臨洞庭言懷作」なのか
   「與韓荊州書」     長文なのと漢字が旧字体で表示できないもの多く、省略

    「荊州賊亂臨洞庭言懷作」  李白
    修蛇橫洞庭  呑象臨江島
    積骨成巴陵  遺言聞楚老
    水窮三苗國  地窄三湘道
    歳晏天崢嶸  時危人枯槁
    思歸阻喪亂  去國傷懷抱
    郢路方丘墟  章華亦傾倒
    風悲猿嘯苦  木落鴻飛早
    日隱西赤沙  月明東城草
    關河望已絶  氛霧行當掃
    長叫天可聞  吾將問蒼昊
      洞庭湖を望む岳陽楼からの眺めは古代から何も変わってはいないが
      荊州に流された李白は戦乱のため故郷に戻ることもできない。
      身の上運は天命なのか嘆くという韻文詩です。